「一期一会」は、もともと日本の茶道の言葉だ。次も同じ人と、同じ場所でお茶を飲んだとしても、それはもう同じ出会いではない。天気も違うし、気分も違う。お互いの人生も、少しだけ前に進んでいる。だから一つ一つの出会いを、一生に一度きりの機会として大切にする。

このテーマで、ぼくがすぐに思い出したのは、William B. Irvineが紹介していた練習だ。last time meditation、「最後の一回」瞑想。

Irvineの『A Guide to the Good Life』は、ぼくがいちばん好きなストア哲学の入門書だ(難しいものは読み進められない)。彼は、とてもシンプルな事実を指摘している。

人生のすべての物事に、最後の一回がある。ただ、その最後の一回が来たとき、ぼくたちはたいてい、それが最後だと気づかない。

たとえば、スキー。

ぼくは実は、そこまでスキーが好きじゃない。お金がかかるし、面倒だし、危ない。遠くまで行って、道具を借りて、たくさん着込んで、リフトで山を登る。頻度も高くない。もう何年も行っていない。今「わざわざスキーに行かないか」と誘われたら、ぼくはきっと「面倒だな、また今度」と言う。

でもIrvineのアドバイスに従うと、ふと気づいた。もしかしたら、この前行ったスキーが、人生で最後のスキーだったのかもしれない。

不思議なことに、そう考えると、感じ方が一気に変わる。

もし最後の一回だと知っていたら、ぼくはスキーブーツが面倒だなんて文句を言っただろうか。何本か滑って「もういいや、帰ろう」なんて思っただろうか。たぶん思わない。むしろ、もう一度リフトで山を登って、周りの雪をじっくり眺めて、もう一本滑りたくなる気がする。

ぼくはスキーがそんなに好きじゃない。でも「この前が、人生で最後のスキーだよ」と言われたら、急にちょっと名残惜しくなる。

これがIrvineの言う「最後の一回」瞑想だ。彼は、何かをしている途中で、たまにこう考えてみることを勧めている。もし、これが最後の一回だったら?

毎日を世界の終わりみたいに生きる必要はない。ただ数秒だけ、自分に思い出させる。今やっていることが何であれ、いつか本当に最後の一回が来る。そして、それは今回かもしれない。だって、どんなことも、いつでも起こりうるのだから。

ぼくの人生にも、こういう「最後の一回」は、もうたくさんあった。

子どものころ、きっと親に抱き上げてもらう最後の一回があったし、よく行っていたどこかの場所に行く、最後の一回があった。大人になっても同じだ。また会えると思っていた友だちと、最後に会ったのが十数年前、ということもある。夢中で遊んでいたゲームを、ある日閉じて、それきり二度と開かなかったこともある。

こういう終わりは、たいてい何の予告もなくやってくる。世界が目の前に「ご注意ください、これが最後の一回です」なんてウィンドウを出してくれるわけじゃない。

だから、自分で時々思い出すしかない。「これが最後の一回かもしれない」と。


最近、ぼくは本の出版で忙しくて、毎日まだ直せるところがある気がしている。この文はもっと滑らかにできる、あの段落は書き直せる、コピーにはもっといい版がありそうだ。もし出版社がずっと直させてくれるなら、ぼくは本当に、一生直し続けられると思う。

出版には締め切りがある。ある日を過ぎたらもう直せないし、いよいよ印刷に回るときは、満足でもそうでなくても、手を止めるしかない。

こういう締め切りが、ぼくは大嫌いだ。でも、締め切りがなかったら、この本を永遠に書き終えられないことも、わかっている。

明日があるかぎり、今日はやらなくていい。次があるかぎり、今回はそれほど大事に思えない。

人生も同じだと思う。

もしぼくに永遠の命があったら、書きたい本は百年後に書けばいいし、行きたい場所は来世紀に行けばいい。今日を無駄にしたって構わない。だって、このあと無限に「今日」があるのだから。

人生に締め切りがあるからこそ、ぼくたちは時間を大切にしたくなる。

死は怖いものに聞こえる。でも、もし死がなかったら、ぼくたちが大切にしているものの多くも、一緒に意味を失ってしまう。

うちの年配の家族は、「死」の話を嫌がる。口に出したら、その怖い締め切りが本当に早まってしまうとでもいうように。でもぼくは、逆だと思う。たまに死について考えるのは、少しも悲観的なことじゃない。時間が限られていると知ることこそ、今持っているものを大切にさせてくれる。


ぼくの子どもたちは、毎日「パパ、だっこ」と走ってくる。でもいつか、ぼくが最後に抱き上げる日が来る。

だから今、子どもを抱っこするとき、「うわ、どんどん重くなってる」と思うのに加えて、「もしかしたら、これが最後の一回かもしれない」と、より強く意識するようになった。

すべての物事に、最後の一回がある。ただ、それがどの一回なのか、ぼくたちにはわからない。

わからないからこそ、この一回を、しっかり生ききろう。